作業員時代まとめ その1 「稲田工業に入る前」

 2011年3月、東京電力福島原子力発電所(以下、1F)で、過酷事故が発生した。当時、埼玉県に住んでいたが、実家は福島県いわき市にあり、父と祖母が住んでいたので、他人事ではなかった。

 事故やその対応に関する情報が欲しくて、インターネットで東京電力(以下、東電)の記者会見を見るようになった。その会見を見ていて、「東電は本当の事を言っているのか」「事故を矮小化しているのではないか」と思うことが多々あった。また、甘い質問をする記者がたくさんいるとも感じた。もどかしい気持ちが募り、私自身が会見に出たいと思うようになった。

 2011年4月、まずは東京都千代田区にある東電本店の前に行ってみた。数多くの警察官がいたし、東電に抗議する人や原発に反対するデモ行進をする人々がいて、異様な雰囲気を感じた。

 後日、再び東電本店の前に行く。門の前には警備員が立っていて、入ってくる人の確認をしていた。私は駄目で元元と思い、警備員に近づき「記者ですけど、会見に出たいのですが」と言うと、「どうぞ」と言われ、簡単に門の中に入ることが出来た。あまりのあっけなさに、拍子抜けした。記者会見に出る記者用の受付で、所属、名前や連絡先を書く。受付の人から名刺が欲しいと言われたので、事前に作成してあった「市民記者」と書いた名刺を渡す。会見の時間になり、ちゃんと記者会見に出ることが出来た。

 その後、何度も記者会見に出たが、記者会見では十分な情報を得る事が出来なかった。1Fの情報が欲しかったし、収束・廃炉工事に貢献したかったので「1Fで働いてみたい」と思うようになっていった。鈴木智彦著『ヤクザと原発 福島第一潜入記』や堀江邦夫著『原発労働記』からも影響を受けた。

 2012年8月に、求人サイトで1Fの作業員を募集している会社を見つけたので応募し、入社する。だが、その会社で働いた現場は、東京都や埼玉県のビル、マンションや駅しかなかった。1Fに人を出していたが、私が行く機会は得られなかったので、数か月で辞めた。

 再び求人サイトで探し、複数の会社に応募する。だが、ほとんどは連絡が来ない。数社から連絡があったが、すぐに1Fで仕事が出来ると言う会社はなかったし、「仕事が出来るようになったら連絡が欲しい」と頼んでも、再び連絡がくることはなかった。

 2013年9月、実家に戻り、1Fで働ける会社を探した。まず、タンクパトロールで求人を出していたいわき市の会社に応募し、面接を受ける。タンクパトロールだけでは、あまり情報は得られないと思い、別の会社の面接も受けることにした。

 そこは『国松工業』と言う会社で、父の同級生が経営しているので、父に口を聞いてもらう。だが、予定していた日に社長の都合が悪く、面接を受けることが出来なかった。それで、面接がないまま採用が決まった。そんないい加減なところなので不安になったが、事故が起きる前から原発の仕事をしている会社なので、入社を決めた。

 その当時、国松工業では1Fに誰も人を出していないので、まずは大熊町での除染作業をすることになった。除染を始めて1か月ほど経っても、まったく1Fの話が出ない。痺れを切らし、社長に「原発(1F)の仕事が出来ないなら辞める」と言うと、数日後、『永井サービス』と言う元請け会社の下請け作業員として働けることになった。

 1Fで働くためには、特定の教育を受ける必要がある。その内の「a教育」と「b教育」をJヴィレッジで受けた。しかし、記者会見に出ていたことが、国松工業の上位会社である『白井建設』にバレてしまい、1Fでの仕事は白紙になってしまった。「工場など他の現場で何か月か働いてから行かせる」と白井建設の社長に言われたが、信じられなかったので、国松工業を辞めた。

 再び1Fでの作業員を募集している会社を探すことにした。

Jヴィレッジはサッカーのトレーニング施設だったが、当時は1F工事の拠点になっていた。福島県広野町と楢葉町に跨って立地している。

作業員時代まとめ その2 「稲田工業入社から登録まで」へ

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